幼少期
私の実家は岩手県釜石市という町で祖母方の実家より続いている歯科医院であった。
昭和42年、三人兄弟のいわゆる末っ子として生まれた。
私が生まれた釜石市は鉄が採れるということで製鉄所があり、窓から見る景色は工場の煙突からもくもくと煙が出ていたのを記憶している。
3歳の頃からアトピー性皮膚炎、喘息を患い、とてつもなく病弱であった。
幼稚園もほとんど登園できず、入退院を繰り返す生活であり、祖母や親戚の方々からずいぶん心配されていた。
小学校時代~高校生
小学校1年:自分の病気のために、当時の治療の一つとして、「転地療養」を薦められ、父を残し、母、姉とともに盛岡に転居。自分のために不自由な生活を家族に強いてしまい、子どもなりに雰囲気を感じ取り、親の言うことには逆らわず、割とおとなしくいい子であったらしい(親戚談)。
そんな身体であったため、外で遊ぶということはほとんどできなかった。だが、いまどきの子どものようにテレビゲームに対してあまり興味を持たず、代わりにプラモデルを作ることに没頭していた。学年が進むにつれてだんだん丈夫になりつつ、プラモデル作りはどんどんレベルアップし、4年生の頃は電動ラジコンカーを組み立てていた。5年生になると電動ではなく、エンジンラジコンまで手を出していました。幼稚園から小学校まで、父と遊んだ記憶がほとんどなく、たまに海釣り、登山したことが父と遊んだ唯一の思い出である。
中学になると、たまたま聞いた洋楽、特にビートルズにノックダウン。14歳でギターを始める。最初はビートルズ、その後はシーナエーストンやビージーズなどポップスばかりでしたが、レッドツェッペリンを聞き、ハードロックに興味を持つ。その後ヴァンヘイレンを聞き、どうやって弾いてんだ?とのめり込む。
高校は自宅から自転車で20分程の男子校に通っておりました。ギターは引き続き我流で引き続け、柄にもなくなく応援団もやっていた。
大学生~附属病院勤務
大学は父の母校である東京千代田区飯田橋の日本歯科大学生命歯学部に入学。意気揚々入学したのは良いが、一般教養講義はあまり興味を持たず、当然成績は下の方。部活はボウリング。これもそんなに良い成績ではなかった。ところが、専門課程にはいると、とても講義が楽しくなり、何とか卒業。
平成4年、歯科医師国家試験も無事に合格し。臨床研修医を経て歯科補綴学教室第二講座に入局。この講座大変な大所帯で、入局当時、教授を筆頭に諸先輩が50人以上という、物凄い人気の部署でした。講座所属し、材料、審美、咬合、顎関節症など、ここで学んだことは、今の診療体系の礎となっております。途中で大学の構造改革があり、総合診療科へ所属、臨床、教育に重点を置いた生活へ・・・。
平成16年、教え子である妻と結婚。平成17年、長男の出産に立会い、女性が命がけで行う出産に立会い、女性の偉大さに心から敬意を払おうと決心。
平成17年、家庭を充実させるべく大学附属病院を退職。新たな生活をスタート。
勤務医時代~人生の挫折
大学病院を退職し、新たに都内、埼玉県、神奈川県に勤務。地域医療は大学病院時代と異なり、いかに患者様に寄り添っていくか・・・。ということに重点をおいて学んでいきました。
神奈川県川崎市で分院長をやりながら、そろそろ実家に・・・と、思っていた矢先、平成23年、精神的にも、人生も大きく変わってしまう事象が起こった・・・。東日本大震災である。
地震当日、私は午後の診療を開始して少し時間がたった頃であった。猛烈な地鳴りあと、今まで経験したことがないほどの大きく、長いゆれに恐怖を感じていた。診療は中止、電話も繋がりにくくなり、テレビは全てのチャンネルが速報に切り替わっていた。だんだん情報が増えて、実家がまずいことになっているかもしれない不安がよぎっていた。地震発生から20ほど経ってから下の姉から携帯に着信。「ちょっと、釜石やばいらしいよ!」と。うん、テレビで情報確認している・・・。と落ち着いて答えるものの、実家との連絡が取れず、不安が止まらなかった。私の実家は祖父が終戦直後に建て直した。以前にも津波の被害を受けた市であるため、地震や津波に負けないようにと鉄筋コンクリート造りであった。だから倒壊はしてないだろうと思っていた。そして、地震発生から30分ほど経過し、15時25分頃と1時間ほど経った15時47分頃、2回にわたり、全身に経験したことがないほどの鳥肌と寒気が走り、いやな予感がした。なんだろう?と思いながらも情報を見ていた。しばらく時間が経ってから知ったのだが。最初の鳥肌と寒気の時は釜石に津波が到達した時間である。2回目はおそらく・・・。
実家は全壊ではあるが、建物は残っていた・・・。両親が見つかったのは19日であった。自衛隊員20人がかり、重機二台を駆使して瓦礫を取り除きながら家の中を捜索、発見して頂いた・・・津波の力は本当にすさまじく、家の中に転がっている柱を一本担ぐのも一人では出来ない。
県内の火葬場はいっぱいで、両親の火葬は隣の秋田県、横手市で行われた。最後のお別れの時、驚いた。どんなに悲惨な姿なのか恐れていたが、きちんと正装されており、母は化粧を施されており、二人ともまるで昼寝をしているような顔であった。ほとんどの犠牲者は発見されてそのまま棺に納められていたのであるが、なんと、近隣の方々や、友人たちにより清掃され棺に納めて頂いていた。皆、自分たちも被災しているのにも関わらず・・・。遺体安置所では出棺まで何十人も輪になって偲んでくださり、火葬場までも付いてきてくださった。
私は、親孝行というものを「親を乗り越えて活躍すること」と思っていた。大学病院に残り、名刺の肩書も増やし、臨床研修を計画指揮する部署に配属され、そこで懸命に働き、それが父親に喜んでもらえるものだと、思っていた。だが、自分たちそっちのけで両親を気遣って頂いた方々を私が引き継いでお付き合いさせていただくことが最大の親孝行であったことに気付かされた・・・。
その後も、両親の親しい友人たちや親戚たちは自宅の瓦礫の中から貴重なものや、思い出のものなどを探し出し、毎日のように発送してくれた。本当に心の底から感謝してもし切れないほどの献身的な作業や励まし、激励を頂いた。
自分が家の中の奥まで見ることが出来たのは3ヶ月後であったが、瓦礫がまだ山積みで隅々まで入っていけない。
が出来るようになったのは1年後、解体の数日前であった。ほとんど住んでいなかったため、あまり思い出がないと思っていたが、事細かに色々な思い出が頭の中に溢れてきた。
実家の再建をあきらめ、解体した瓦礫の中から実家の欠片を持ってきた。勤務医をしながら、どうやって被災地でやっていこうかと悩みに悩んだ・・・。
そんな折、義父より、現在の自宅近隣の藤が丘駅の物件情報をもらい、一念発起。現在の地に開業することになった。